2017年2月22日水曜日

宗教は人を救えるのか



清水富美加さんの出家騒動をネット越しにウォッチしていると

なんだかなぁって気持ちしかない。

 

登場人物の誰もが幸せでないからだ。
 
 


傍から見ていると22歳の若い女の子が事務所からも、宗教団体からも

実の親からも、そして愛した人にさえ「利用されている」感しかない。

 

彼女の今後の人生があたたかなお日様に包まれているものだと

いいなぁって思うが、今現在、執筆中の身としては

 

「出版、早っ!?」って感覚である。

 

私は自分が遅筆で考え込んでドツボにはまっていくので

企画が上がってから実際に拙書が店頭に並ぶまでは年単位の

恐ろしい日数を要するのであるが、そこから思えば

 

大人の思惑で日にちを合わせて、仕掛けられたんだろうなって感想だ。

 

宗教は人を幸せにするものだと思うのだが

私の知る限りという狭い世間の話だが

幸せになっている人を知らない。

 

ある人は布教しなければ、自分に悪いことが起こるかのような勢いで

勧誘してくるし

 

ある人は地球滅亡を延々と説いてくる。

 

選挙が近くなると急に友だちだと言い張る人が出るし

 

他人の都合を一切考えず、玄関チャイムを鳴らし

救ってあげると声高に言ってくる人もいる。

 

もし、素晴らしい奇跡のようなものがあるのだとして

それで救われることがあるのなら

そこにはほっといても、人々が群がるのではないだろうか。

 

わざわざ玄関チャイムを鳴らしたり、電話をかけずとも

向こうの方から「是非、入れて下さい」って言って

くるんじゃないかなって不思議に思っている。

 

一方で私は「宗教心」は特に晩年になればなるほど

必要だと思っている。

 

それは「己が幸せになるために」ではなく

 

結局はどの宗教でも生きているということに対して

「ただ感謝する」ということだと思うのだ。

 

「ありがたい」つまり「有ることが難い」という心情に

なれたなら、己の抱く痛みも苦しみも恐怖も孤独も薄まり

 

結果、満ち足りた気持ちになるんじゃないだろうか。

 

体のどこかに痛みがあるとき、それを直視してしまうと

意識がそこに集中し、痛みが増大するように感じるが

 

他のことに夢中になっている瞬間はそのことを一時的にでも

忘れている。

 

「今日は富士山が見られて幸せ」

「美味しい物が食べられて幸せ」

「〇さんが元気で幸せ」

 

結局、宗教ってそういうことだと思う。

 

かなり前だけど、直木賞作家の息子さんがある中高一貫校出身で

そこは宗教校だったんだが、彼が大学1年生のときに

私はインタビューをしたことがある。

 

大学生だった彼は即答で迷いなく、こう言った。

 

「この学校を出て良かったと思うことは何かですか?

それは自分のことではなく、誰かのことを思って祈ることが

できるようになったことです。

 

『あいつが元気でいますように』って感じです。

 

これ、僕にとってはすごく大きくて・・・。

 

でも、これは結局、巡り巡ると自分のためだなって

強烈に思うんですよ」

 

誰かのために祈る。

直接は何も出来ないかもしれないけれども

ただ、その人の元気を願って、その人に思いを寄せる。

 

私は宗教はこれだけでいいと思っているんだよなぁ・・・。

 

 

 

 

 

 

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