2017年9月21日木曜日

「苦しむ母の姿に『いっそ私が』。みとり、悔いが残った」


 朝日新聞デジタルで連載中の鳥居りんこインタビュー、最終回が

先ほどアップされました。

 


 

おどろおどろしいタイトルが付いております。

(記者さんが最後の最後まで悩んでくださって、このタイトルになりました)

 


この連載は全3回で私の実母の最期の日々を追想したものです。
 
 


 

今、人の死というものは遠く、実際に目の前で人が死に行く姿を見ることは

医療従事者などを除外するならば、一生にもそんなにないことで

 

一般的には「遠い部屋」で起こっている出来事のようになっている

のかなって感じるところです。

 

この連載で言いたかったことは「人の死は誰に責任があるのか?」と

いうことです。

 

今、この国では誰もが責任を引き受けようとはしません。

 

国会議員ですら「秘書が」を連発し、原発事故にしても

誰がどのように責任を負うのかも曖昧な状態です。

 

個人の「死」に関してもそうで、医者は家族に訴えられないためにも

「延命」に懸命になり、一度、入院したら最後で、その医療措置を

止めることは事実上、出来ないシステムになっています。

 

家族は家族で、死に行く人の命の時間を切断する責を負いたくない

気持ちも手伝い、医療に丸投げしてしまうケースが沢山あります。

 

では、自宅、介護施設での看取りが良いのかと言えば

見守る家族には相当な覚悟が必要になります。

 

何月何日の何時に死ぬなんてことは本当に末期になっても

誰にもわかりませんから、仕事をしている、家庭があるなどの事情が

加われば、事実上、無理です(私はお暇だから、出来たわけですね)。

 

母はリビングウィルに加入済でしたし、元気な時には

「管を付けるくらいなら、そのまま死なせて」と言ってはおりましたが

 

人が死にゆく姿を父→祖母しか見たことがなかった私には

色々と想定外の出来事があり、見通しが甘かった、こんなに罪悪感を

背負うものかと忸怩たる思いも持っております。

 

もし病院に送っていたならば、今も母は存命していたかもしれず

(それが良いかどうかの問題はありますが)

 

少なくとも、病院お任せの時間の方が長いわけですから

医者との共同責務と言うのか、そういう意味では罪悪感は薄れたかも

しれません。

 

理想とすれば、看取りに入って1週間くらいが理想の死なのだと

感じます。

苦しむ人(実際に苦しいのかはわかりません、苦しそうに見えたと

いうことです)に何もしてあげられない、それをただ見つめている

時間が長すぎました。

 

私は母の命を事実上、自分だけの意志で母に確認を取ることもせずに

カットオフしたことへの責任を引き受けたくなかったのだと思っています。

 

できれば、母は私からは遠い地で亡くなり、私は突然の別れに親不孝を

嘆き悲しむという構図が良かったとすら思います。

 

祖母(100歳・老衰)が亡くなる時に、祖母の子どもたちと孫(私だけ)が

集まり、私以外の人たちは祖母の「死」待ちでした。

 

子どもと孫には温度差があって当然なんですが、私は祖母には逝ってほしく

なかったので、息が止まるたびに必死で呼びかけ、祖母が川を渡るのを

ひとりで阻止していました。

 

朝からそれをやっていて、夕刻になった頃に、90前の伯母が苛立ちながら

こう言いました。

 

「りんちゃん!もういい加減、逝かせてあげなさい!」

 

私は、そっか、おばあちゃんはもう旅立ちたいのか・・・と思い

次に息が止まったときには、もう呼びかけませんでした。

 

引き潮のように「ああ、命が吸い込まれていく」と思ったことを

今も鮮明に覚えています。

 

そして、10年。

今度もその教訓を忘れ、足が氷のように冷たくなると懸命に温める、

呼吸がおかしくなると、どうにかしようとあらゆることを試みたり

するわけです。

 

その度に蘇ったりするわけで、最初は安堵もしたのですが

その内に「苦しみを無駄に引き延ばす」行為にしか思えなくなりました。

 

でも、実際に死の兆候が濃厚になると、どうにかしようと足掻いてしまう

私がいて、その行為に母も必死で応えてくれようとしたのかも

しれないです。

 

そういう深い夜を何度か繰り返した私は記事にありますように

最期は覚悟の上で看取りを諦めました。

 

息が止まる瞬間に故意に立ち会わなかったということです。

 

今でも「あの時」「あの時」と「もし、こうしていたら」ということを

10年を遡る形で何度も思います。

 

介護には悔いがないと思うくらい、この10年やってきましたが

やはり「あの時」「あの時」という気持ちの来襲は抑えられません。

 

ひとつだけ自宅の看取り(父)と老人ホーム(母)での看取りで

良かったと思うことはエンジェルケアを私自身の手でやれたと

いうことでしょうか。(※エンジェルケア=死亡後に死体に施す処置)

 

「ああ、人は最期、魂は徐々に離れ、肉の塊になってしまうのだ」

 

ということを刻一刻と変化する肉体を通して、感じることが

出来たからです。

 

とても神聖で奇妙で貴重な体験でした。

 

この朝日新聞デジタルの記事をお読みになって、読者の皆さんが

それぞれのご事情に合わせた何かを感じ取っていただければ

ありがたいと思っております。

 

私は引き続き、介護はどうあるべきなのか?ですとか

死はどう迎えることがいいのか?ですとか、人はどう生きるべきか?

などについて、皆様と共に考えていくことができるように

発信を続けていこうと考えております。

 

読後感が良いとはとても言えたものではない記事をお読みくださり

ありがとうございました。

 

朝日新聞社、或いは鳥居りんこに直接、ご意見・ご感想をお寄せ

頂けますようお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

2 件のコメント:

  1. 記事もブログも拝読しました。りんこさん、りんこさんはやはり、心が優しく暖かいのだと思います。そしてとても愛情深い。ホームの方々も親身になって、私には良いみとりだったと思います。
    私はもっと割りきるタイプですね。だから自宅介護ができるのだと思います。私の兄はもっと割りきるタイプで、母はこの夏に口の痛みに悩んでいたのですが、口内炎の薬が効かないことを言うと、「もう死ぬ兆候かもしれないから、かかりつけの内科に行って余命を聞け」と言い出して、ケンカになりました。ケアマネージャーに相談したら、訪問診療してくれる歯科が近くにあると聞き、電話したその日に来てくださって、結局口腔カンジダで、外用薬で治りました。それから反省して、口腔ケアはマメにやってます。
    りんこさんは口腔ケアは命かけてるくらいでしたよね。だから介護に取り組む姿勢が全然違うのだと思います。
    りんこさんはよい介護をなさいましたよ。人間の力が及ばないことを、自分の責任だと思われることはないと思います。
    でもこうして、文章にしてくださったので、後を歩く者たちには、目印になります。ありがとうございます。

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    1. ありがとうございます。
      お母さま、治って良かった!ガンジダではさぞやお辛かったでしょう。

      あはは、お兄様、わかりやすい反応!(笑)

      息子の方が耐性が少ないような気がします。
      だから、息子介護の方が殺人が多いのかもしれないですね~。
      (お兄様がそうってことではないので、念のため)

      口腔ケアは本当に大事ですよね。
      特に嚥下がうまくいかなくなると、それが誤嚥性肺炎に
      なって一発アウトならば、まだマシで
      器具だらけの延命治療スタートになりかねないですもんね。

      慰めてくださってありがとうございます。

      責任を感じても、もう死んでいるんでね
      どうしようもないんですが

      「死へ向かう潮の流れ」を感じられなかったために
      「あの時」「あの時」って思っちゃうんですよね。

      時間薬が必要になるかもしれません。

      コメント寄せてくださってありがとうございます。

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